2009年9月29日火曜日

「語り」と「騙り」

「語り」とは「騙り」である。そのことを思い出させてくれる本に時々出会う。今回読んだ歌野晶午著『葉桜の季節に君を想うということ』もそうだった。推理小説なので、種あかしをするのは控えるけれど、見事に騙された。それは「犯人が思いもかけない人だった」とかそういう騙しではない。物語を読んでいくにつれ、読者は自らの想像によってその物語の世界を作り上げ、その世界に入り込んでゆく。その作り上げた想像の世界が、ある一点でぐしゃっと潰される。そういう騙し。
 アゴタ・クリストフの『悪童日記』をはじめ『ふたりの証拠』『第三の嘘』というのは、その「騙り」の物語の代表作で素晴らしい作品だ。初めて読んだとき衝撃を受けた。「書くこと」「語ること」とは何か、ということを深く考えさせられた。推理小説ではアガサ・クリスティの『アクロイド殺し』なんかもその手の騙しとしては有名ではないだろうか。
 で、今回の『葉桜の季節に君を想うということ』にも騙されたわけだけど、私としてはあまり気持ちのよい騙されかたではなかった。日本推理作家協会賞、本格ミステリ大賞を受賞しているのだから、その騙しのテクニックは評価されているのだろう。でも種明かしの時点で、自分の想像世界が衝撃的にぐしゃっとつぶされるというより、ぐにゃりと歪められたような、もしくは変な色を付けられたような不快な気分がした。再読してみると、その騙し方も稚拙な気がする。本の帯には「これが現代のミステリーのベスト1です」なんて書いてあるけれど、それにしてはあまりにもお粗末で、他にももっとすぐれた推理小説はあるはずだと思う。

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